anna's Book Report: "Minor Feelings" - Cathy Park Hong
こんにちは、あんなです。
先日読んだCathey Park Hongの “Minor Feelings”について、みなさんとシェアしたくニュースレターを書いています。
マイナーフィーリングス。「末節な感情」と「マイノリティの感情」のダブルミーニングを持つクレバーなタイトル。本著はコリアンアメリカンであり詩人のキャッシーさんが、自身のアジアンアメリカンとしての経験と、これまでの歴史や主要な人物たちを重ねて考えるエッセー本です。ファーストパーソンで書かれながらも、参考文献も多く参照されていることからファクトベースとなっており、けれども詩人らしきポエティックな表現が耳に心地よい著書でした。
日本のルーツを持つ者としてアメリカで育った私にとっても、読み進めるのに辛さを感じるページがちらほら。本著を通じて、私は「アジアンアメリカン」としてのアイデンティティも持ち合わせているのだな、と新たな自分を発見することができました。それと同時に、今まで角に追いやられていたアメリカにおけるアジア人差別についても、改めて学ぶきっかけとなりました。
本作の中に、いくつかご紹介したい文章、事例があったのでシェアさせてください。これをきっかけに読者の皆様にも新しい学びになれば嬉しいです。
"Racial self-hatred is seeing yourself the way the whites see you." p. 9
「人種的自己嫌悪は、すなわち白人があなたを見るように己を見ること。」
白人至上主義の社会では、白人がベースとなっており、そこから遠ざかれば遠ざかるほど「悪」とされます。これがわかりやすいのが美的スタンダードではないでしょうか。
二重でなければならない。肌が白くなければならない。手足が長く、高身長でなければならない。そうでなければ、「美しくない」。
この価値観は白人社会によって刷り込まれたものであり、本来ならば存在しなかったはずのコンプレックスを生んでいます。英語を喋る時の「アクセント」もそうでしょう。
自分のコンプレックスを一度冷静に考え、これは「人種的自己嫌悪」ではないか、という視点を踏まえて考えてみてほしいです。
(以下のツイートは本著の情報より)
始まりは朝鮮戦争の際に火傷患者を診るために送られた医師、ラルフ・ミラードがアジア人の顔を”西洋化”するために発案した手法。米軍人たちにとってより魅力的にするために朝鮮の娼婦たちに手術を施したのが最初。
今ではアジアの少女達が自ら進んでするように。
"Misogyny trumps any racial solidarity." p. 24
「ミソジニーはどんな人種的結束にも打ち勝つ。」
ある女性の学者が三名の男性からセクハラに遭った例が著書で挙げられている。うち一人は、同じ部署で唯一のアジア人の同僚であった男性だった(他2名は白人)。アジア人男性は、白人男性らと混じり彼女から盗んだ彼女の衣服(著書では明記されていないが、おそらく下着)を自ら身につけて彼女を嘲笑った。二人しかいないアジア人の同僚同士として結束するでなく、他の白人男性らと混じり彼女にハラスメントをすることを彼は選んだのです。
アジア人男性にとって、アジア人女性<白人男性であり、人種的結束よりも、ミソジニーが打ち勝つのです。
非白人男性にはそのような場面に立った時、ど同胞女性でなく白人男性についてしまう。
この傾向を当事者の男性たちが認識し、改善していかなければならない。
そして改めて、フェミニズムの重要性が理解できます。
“I am not ready to heal.” p. 30
「私はまだ癒える準備ができていない。」
生きていれば全ての人が何かしらの傷を負うものでしょう。
ですが、それに対して「治さなければならない」というプレッシャーを感じていたのだとこの一文にハッとさせられました。そしてこのプレッシャーは、まるで自分のためのように思わせられるのだけれど、実は周りの人間にとって、社会にとって都合が良いことで、傷を負っている当人の利益はあまり考慮されていないのです。
当著の中でこの一文は、トランプが選挙で当選した直後に著者が参加したセミナーであった白人女性との会話の中で出てきます。セミナー開催の1週間前に、とある政治家が二十世紀初頭にあったアメリカでの日本人(日系人)の強制収容を例にあげ、ムスリムの人々を登録し監視しようと発言したばかりでした。アジア人に対するヘイトクライムも上昇する中、ほぼ全てのマイノリティがトランプに寝返った州で怯えながら生活していました。詩人であるキャッシーさんに対して、その女性は「あなたの詩を紹介するべきだった。詩は心を癒すのに重要です。」と話しかけます。
その女性に対してキャッシーさんは「私はまだ癒える準備ができていません」と答えます。
この一言には二つの意味があると私は読みました。一つは、キャッシーさん自身の心の準備ができていないという読み方。そしてもう一つは、「癒えてたまるか」という、反骨精神。後ろからいきなり殴られたような理不尽な傷を、加害者にお咎めなく「早く治しましょう」と言われ、「でも痛いんです。血が止まらないんです。」と叫べば、「大袈裟な」「痛いのはあなただけではない」「癒やす努力もせずに何を言っているんだ」と何故かこちらが責められる。そのような状況に対して、釘を刺す一言のように読めました。
キャッシーさんに話しかけた女性は頷き、「あなたのその返答を尊重します。」と声をかけて退室しました。
まるでこの社会では、マイノリティに対してまだ閉じない生の傷口に無理矢理小さすぎるバンドエイドを貼って、「もう大丈夫です」と言うことを求めているようです。けれども、傷は正しく手当しなければ、腐り、いつの間にか菌が心や脳まで侵食してしまいます。「今はまだ癒える準備ができていない」と言って良いのだと、その場限りの簡単な手当ではなく、自分にあった方法を模索する時間を持っても良いのだと、私は読みました。
"Americans have an expiration date on race the way they do for grief. At some point, they expect you to get over it." p. 47
「アメリカ人には、悲しみと同じように人種問題にも賞味期限がある。いつかはそこから立ち直ることを当然としている。」
上記の「癒える準備ができていない」という文脈にも続くこちらの文章。
悲しみが心に宿った時、人は「時薬だ」と言います。実際、年月が過ぎれば楽になることもあるでしょう。しかし、その同じような態度を人種差別に対しても求められているんだ、とキャッシーさんは書きます。
「もう十分起こったでしょう」「今更何を言ったところで変わらない」「時が過ぎれば全て忘れるよ」
まるで慰めの言葉に聞こえますが、実はこれらの言葉はそれを発している人にとって有利であって、実際にそこで怒りや悲しみを抱いている人にとってはそれを抑え、黙らされる言葉です。アジアンアメリカンを含む様々なマイノリティは、「少し騒げば落ち着くでしょう」と、真摯に主張を聞き入れられることがなく、「また騒いでいるよ」と振り払われる。それに対して罪悪感まで感じさせられるはめに。けれど、実際はことが解決するまで、思う存分怒りを表明しても良いのです。
"Humor is a form of survival." p. 52
「ユーモアは生き残るための手段である。」
日本でも度々「差別」と「笑い」のバランスが課題として挙げられます。
日本では、マジョリティがマイノリティをネタにする、トップダウンの笑いが未だに受け入れられています(女性の体型や外見に対して"ツッコむ"、外国人をネタにカタコトで話す、など)。しかしこれは「笑い」ではなく、単なる差別であり、これを笑いとするのは問題であり、センスもありません。
しかしこの指摘に対して度々、「でも当事者だって自虐ギャグで言っていた!(だからマジョリティも言っていい)」というような言い訳があります。しかしこれはそうではありません。
キャッシーさんが書くように、マイノリティからしたら笑いやユーモアは生きるための術でもあります。上記の言葉は、コメディアン、リチャード・プライアーを例に挙げ、「ブラックユーモア」の起源について書かれています。奴隷制度から人種分立、今では警察による人種差別。これまで受けてきた不条理で残酷な扱いを「笑い」に変えることで、「笑う」ことの自由を保持したのです。
リチャード・プライアー
"Rather than 'speaking about' a culture outside your experience, the filmmaker Trinh T. Minh-ha suggests we 'speak nearby.'" p. 102
「映画監督のトリン・T・ミンハは、自分が当事者でない文化に『ついて話す』のではなく、その『周辺で話す』ことを提案している。」
このトリン・T・ミンハの言葉にはハッとさせられました。
これまでも、非当事者が差別問題を語る上で、当事者の足を踏んでしまう現場を多く目撃してきました。けれどそれを指摘すると、「当事者以外はこの話をしてはいけないのか!」と反感を受けます。近年「アライ」という言葉が少しずつ普及してきたのは、皆肌感でこの「周辺性」を理解し始めたからではないでしょうか。
そのトピックに「ついて話す」という行為は、つまり自分がその代弁者となり、当事者が発言する場を奪ってしまいます。これは差別問題に熱心な人でも陥りやすい間違いであるように思います。「周辺で話す」というのはつまりどういうことか。ミンハは次のように続けます。
"leave the space of representation open so that, although you're very close to your subject, you're also committed to not speaking on their behalf, in their place or on top of them."
「代表権の間を開いたままにし、あなたが主題に近い場所にいたとしても(愛着を持っていても)、決して彼らの代わりに、または彼らの上で話さないよう専心すること。」
「周辺で話す」ー この感覚は、今後私も大切に持っていたいと思いました。
トリン・T・ミンハ
"To truly feel gratitude is to sprawl out into the light of the present. It is happiness, I think. To be indebted is to fixate on the future." p. 186
「真に感謝を感じるというのは、'今'という光の中に広がることである。それが幸せ、なのだと思う。恩をきせられたように感じるというのは未来に固執するということ。」
キャッシーさんは、当著でアジアンアメリカン(本土のアジア人にも通づる)は、幼い頃から「恩義を強制される」ことについて書いています。
「あなたのために危険を犯してアメリカに渡ったんだ」
「あなたが良い教育を受けられるために、私たちは朝から晩まで働いたんだ」
「あなたは、私たちのおかげで私たちが経験できなかった贅沢を経験できている」
そして、大人になってもこの「恩義の呪縛」から逃げることができず、何を成し遂げても「自分の成果」として捉えることができない。何かいいことがあっても良運を先取りしたような感覚に陥り、不運に構えてしまう、と書かれています。この結果どうなるかというと、「今」を生きることができず、「もっとこうならなければ」と未来にばかり焦点を置いてしまう、というもの。
この話、決して個人レベルで「わかるー」となってほしくなくて(特に本土アジアの方には)、社会問題として捉えてほしいです。アジア人はモデルマイノリティとして親だけでなく社会からも「いい子」であることが求められています。日本の差別問題の一つの課題は、社会問題を個人の問題とすり替える点です。それは、加害者側も都合よくするのですが、バイスタンダーも、当事者も、個人の問題として捉えてしまいます。その結果、コレクティブとして漸進することがとても難しいです。先ほどの「周辺で」の話と通じますが、是非「わかるー」ではなく、どうしてそうなるのか、社会のカラクリに目を向けてみてください。
"(Asian Americans are) fighting not just domestic racism but the U.S. imperialism abroad." p. 190
「(アジアンアメリカンは)国内の人種差別のみならず、海外に蔓延るアメリカの帝国主義とも戦っているのだ。」
著書の中に挙げられた例で胸が痛んだのが、ベトナム戦争の際、ビエットナミーズ・アメリカンたちは、国内での自分に向けられる差別だけでなく、家族や友人もいるであろう本土で行われている戦争とも戦わなくてはいけなく、ダブルバインドの状態ができる、ということです。これは、ブラックアメリカンの方々には無い側面だと感じました(なぜなら彼らは故郷を奪われてしまったから)。
Asian American veterans reported being humiliated and dehumanized by their fellow GIs as "gooks" while their supposed eniemies, the Vietnamese, often identified as their own.
「ベトナムの戦地に向かったアジアン・アメリカンの軍人たちは、仲間であるはずの白人米軍人からはグック(アジア系アメリカ人に対する侮蔑用語)と呼び侮辱されたのに、敵であるはずのベトナム人からは仲間だとみなされた。」
文章ではないのですが、この本に関する文章を書く上で抜かすことができないのがテレサ・ハッキョン・チャ(Theresa Hak Kyung Cha)です。ハッキョン・チャもキャッシーと同様にアジアンアメリカンの詩人でした。代表作である『ディクテ』を発表後、彼女はレイプされ殺されます。この事件についてキャッシーさんは6章目で深く書かれています。
著名な詩人が、ニューヨークのビジネス街でレイプされ殺される ー 通常ならメディアの注目を多く集めるはずなのに、彼女のケースはほとんど取り上げられませんでした。この事件を、アジア人女性の社会的立場・差別と同列に書かれているのですが、とても興味深かったです。特に、「殺人」とは書かれても「レイプ」とは書かれない。これを例えに、アジア人女性が白人社会では極端にフェチ化されるのに、家庭内では性が閉ざされタブー化していることにも触れています。
映像作品も作っていたハッキョン・チャ。彼女の名前を検索すると、彼女のポートレートとして出てくるのは、実は映像で使った彼女の妹の写真。これをキャッシーは、「アジア人女性は常に人間違いに合う。一時、髪が長いアジア人女性は全員オノ・ヨーコだった」と書いており、この検索結果とアジア人女性差別を比べています。ハッキョン・チャの死、そしてレイプをなかったことにしないため、ここで彼女の実際の写真を紹介させてください。
テレサ・ハッキョン・チャ
最後まで読んでいただきありがとうございました。
悲しいかな、Minor Feelingsの日本語訳は現状無く、現時点で翻訳されるという情報も見当たりませんでした。非英語圏の言語格差を感じます。少しでもみなさまに情報を提供したく、私の目線からですがこちらを紹介させていただきました。
トランプ政権、コロナ以降、アジア人差別が可視化されましたが、これらは決して新しい現象ではなく、これまでも水面下で私たちを苦しめてきたものです。これに関する文献が日本語圏でも増えることを願います。
(このニュースレターの英文は全てあんなが日本語に翻訳しました。)
あんなTwitter: @annaPHd9pj
あんなInstagram: @annaPHd9pj
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